こじんじょうほう

ここでは普通の話しかしません

フランドン遁走曲

これは時間とともに忘れ去られて然るべき、とある名もない夜の話。

だったらブログで残しちゃだめだろとか思いながら、矛盾した気持ちでこれを書いている。一人で抱え込むには少々滑稽な体験すぎて。

 

決して眠ることはないと噂されていた首都・大東京からも夜には大半の灯りが消える。そんな日が来るなんて思いもしなかったし、こんな日々が長く続くだなんて考えたくもなかった。このまま21時を過ぎれば飲食店は暖簾を仕舞う。その夜の僕はひどく腹を空かせていて、あと30分で帰宅できるというのにその時間すら惜しく、とにかく今すぐに何か口に運びたい気分だった。

時刻は20時40分を過ぎたところ。ラストオーダー20分前の松屋へとすべり込み、豚めし豚汁セット(生玉子付き)の食券を素早く購めた。

数分後、オーダーどおりの商品が提供される。半分セルフサービスのようになった松屋のシステムに倣い、窓口で受け取ったトレーを持って席に着く。椀の蓋を開ければあたたかな湯気とともに豚汁特有の香りが立ち上る。湖の底から財宝を拾い上げるように探し当てた芋をひとくち、すっかり冷たかった喉と食道に体温が戻ってくる。満を持して豚めしに紅生姜をひとつまみと七味を振り、生玉子を割り入れていざ食べようとした矢先、この世の終わりのような表情で一人の店員が丼を手に駆け寄ってきた。

 

「すいません牛めしですよね、そちら豚めしでした、すいません、こちらです」

 

えっ、と思う間もなく早口でまくし立てられながら慣れた手つきで流れるように回収されてゆく豚めし。そして新たに忽然と現れたのは牛めし牛めし

いや、特に好き嫌いもないし、ぶっちゃけこの空腹を満たせるなら別にどっちがどっちでもいいんだけど、さっき豪快に掻き混ぜて投入した生玉子はどうなったのか。手元にあるのはプレーンな牛めし(玉子なし)だけ。わたしのたまごをかえしてよ。

そもそも自分が注文したものが豚めしだったか牛めしだったかさえ定かじゃないのだ。タッチパネルの表示が誘(いざな)うままにボタンを押して、気がついたらここに座っていた。頼んだのは本当に牛めし豚汁セットだったのかもしれない。でもどっちにしろ生玉子はついていたはずなんだ。わたしのたまごをかえしてよ。ふと、トレーの端に乗った半券の文字が視界の隅に入ってくる。そこには「豚めし豚汁セット」と書いてあった。やっぱ、やっぱり豚めしじゃんか。じゃあこの交換はなんだったのよ。わたしのたまごをかえしてよ。

いや待て、店員さんの言い間違いという可能性もある。最初に出てきたのが牛めしで、あとから豚めしを作り直して持ってきたのだ。それで、謝罪の意思が先行するあまり言葉の順序が転倒してしまったのだろう。人間なのだしそういうミスは誰しもある。依然として生玉子は返してほしいけど、まあいいや。食べよう。ぱく。牛やんけこれ。

このまま黙っていればよかったのかもしれない。豚めしより牛めしのほうが30円高く、しかし生玉子は単品注文すれば70円なので結果差し引き40円の損となる。いや、40円にこだわっているわけではないのだ。こういうのはお金の問題じゃないのだ。けれども僕の心は、僕の精神は僕の魂はすでに、白米にからんで喉元をつるりと通り抜ける生玉子のあの柔らかな感触を希求していた。

 

「すいません」

 

店内に人は疎らだった。窓口の前に座っているテイクアウト待ちの中年男性が、突然立ち上がった縦長の男に驚いてこっちを向いた。

厨房を覗き込むが、さっき牛めしを運んできた店員の姿は見当たらない。まさか退勤してしまったのか? こんなわずか1分の間に? やむなく一番近くにいた店員さんを呼び止める。

 

「あの」

「はいなんでしょう」

「すいませんこれさっき、さっき豚めし回収されたの、牛めし、どっちですかこれ豚か牛か」

「はい?」

 

できるかぎり記憶に忠実な文字起こしをしてみて分かったことは、こんな言い方で伝わるはずがないということだ。

 

「いや、あのーさっきの豚めし? ですかね? 違うってなって交換してもらったんですけど、これー、あのー、えっと、もともと豚めしだったんですよね」

「はあ」

「で、なんか牛めしが来ちゃってるみたいで」

豚めしを頼まれたんですか?」

「あ、そうじゃなくて…そうなんですけど…」

 

どうやらこの店員さんはめし交換があった事実そのものを認識していなかった。決して広くはない店内で、他の店員に気づかれることなく豚めし牛めしをすり替えて自分は跡形もなく姿を消すって、どんなステルス能力者だよと思わざるを得ない。

平行線をたどる議論の末、なぜか「上の者」を呼ばれてしまう。店内のオペレーションはおそらく完全に停止してしまっている。テイクアウト待ちの中年男性が訝しげにこちらを見ている。違う。誤解だ。助けてくれ。「厄介な客」になりたくてこんな行動を起こしたわけじゃない。私は、私は、生の玉子が食べたかっただけなんだ。

やってきた店長に事態を1から(つとめて冷静に)説明しなおし、豚めしが再度提供された。回収されていった牛めしはどうなるのだろう。最初の豚めしはどうなったのだろうか。きっと廃棄にちがいない。空腹だった胃は最初の豚汁ひと口である程度落ち着いてしまっている。意図的じゃなかったとはいえラストオーダー間際の店内を引っかきまわし、テイクアウト商品の提供を遅らせ、ごはん2杯と玉子1個を無駄にしてまで手に入れた「正しさ」に意味なんてなかった。申し訳なさからか生玉子を勢いよく混ぜられないという謎の遠慮が発動し、黄身と白身がほぼ分離した状態のなにかを豚肉の上に回し入れて粛々といただいた。もう味はわからない。ということはやっぱり牛めしでもよかったのかもしれない。

舌の裏に言葉が貼りついてしまったように声が出せなくて、ごちそうさまも言えぬまま店を出た。誰も「ありがとうございました」と言わなかった。当然だろう。今の僕にそんな祝福を受ける資格などない。

あの夜どうやって僕は自分の家までたどり着いたのか。風がひどく冷たかったことだけは覚えている。