こじんじょうほう

ここでは普通の話しかしません

ととのいはとおのいて

身体中いたるところが限界を迎えつつあったので、銭湯へ行くことにしたのだった。

などと書くと、まるで銭湯へ行くのが好きな人みたいな感じがするけれど、実際はそんなこと全然なくて、どちらかといえば苦手なのだ。だったら行かなきゃよさそうなものだが、銭湯や温泉で疲れを吹き飛ばす人が世の中には多いらしいので、自分にも同じ効能が期待できるのではないかと思ったのだった。

銭湯が苦手な理由は大きく分けて2つある。1つは、見知らぬ人の前で裸になることへの抵抗感。まあ単純に恥ずかしいというのもあるが、自分の場合どちらかというと羞恥より心配のほうが勝っていて、だって守備力がゼロになるのだぞ。人間は色とりどりの布を羽織ることで外部の刺激から身を守る性質がある。あなただって道端でつまずいて転んでしまったとき、一張羅が駄目になったかわりに擦り傷を負わずに済んだ経験があるだろう。フェンスの針金が切れて出っ張っているのに気づかずコートの裾をひっかけて破いてしまった経験があるでしょう? カレーうどんの汁が跳ねても火傷せずにいられるのは白Tシャツが身を挺して守ってくれたからでしょう? だけど裸でいると背後から、いや背後じゃなくてもいい、正面から拳骨の一つでもみぞおちへ叩き込まれたら一巻の終わりではないか。それは服を着ていても防げないか。そうか。

加えて自分の場合は眼鏡を常用している、極度の近眼である。ところが銭湯では眼鏡をしたまま湯船に入っていくわけにいかぬ。まったくの丸腰で、そのうえ相手の顔もよく見えない状態で水中へ赴くことのなんと恐ろしいことか。相手の顔が見えないのは表情がわからないということで、つまり喜怒哀楽がわからない。攻撃の意志や悪意の有無さえ感じ取れない。かろうじて体格くらいは裸眼でも大体わかるので、それだけを手がかりに浴室内を移動するほかないのだけれど、男湯に出入りするヒトビトの姿を見渡せば、まーどいつもこいつも体格が良い。戦って勝てそうなひょろひょろっとした人はあんまりいなくて、そこに自分が裸でいる心細さも手伝って、皆一様にツキノワグマウェアウルフのように屈強にみえる。そこはさながら水辺のサバンナ。唯一持つことを許された護身具は小さなタオル一枚、いざとなったらこれで戦うっきゃないのである。水気を含んだタオルはそりゃ振り回せばそこそこの武器になるだろうし、うまく扱えれば相手の手首に巻きつけるなどして鎖鎌のような戦法も取れるかもしれないが、生憎そんな特殊な格闘技には精通していない。それに相手も同じものを持っているはずで、ましてや柳生流タオル武術の使い手なんかが行く手を遮ってきた日には即敗北だ。おれはなんの心配をしているのださっきから。

そこまで心配するのなら銭湯なんて行くなよという声もよくわかる。おれだってそう思う。でも疲れているのよ。早急に整えなくてはならないのよ。

入口の券売機でセット券を購入する。チケットを受付に渡すと引き換えに、なにやら粗いメッシュ構造のバッグとロッカーの鍵を手渡された。ロッカーの鍵はぐるぐるしたバンドに固定されており、そのまま腕にはめることができる。そしてバッグの中にはタオルとバスタオル、それから勾玉のような形状をした謎の板切れが入れられていた。以上が初期装備である。冒険が始まる。

そしてここからもう1つの苦手要素が効いてくる。「銭湯には守るべき暗黙のルールとマナーが存在する」という点である。

ルールが存在すること自体に文句を言うつもりは全くない。まがりなりにも公共の場であるわけだし、ルールはあって然るべきと思う。そして可能なかぎりそれを遵守したい気持ちもある。先に書いたような「銭湯内での戦闘行為は禁止する」といったこともきっとルールに盛り込まれており、おかげで身の危険をいくら案じようとも実際に降りかかることなく済んでいるのだろう。実にありがたい。

ただ問題は、それらルールのほとんどが不文律であり、どこで教わるものでもないという点にある。常連客にとっては当然でも、ごくたまにしか銭湯に行かない自分のような者にとっては、一挙一動がルール違反かそうでないのか判別がつかない。たとえば、かけ湯の回数。たとえばシャワーを使うとき背後を通るかもしれない人への声かけの必要可否。浴場に入ったらまず湯船に浸かるべきなのか、身体を先に洗うべきなのか、その順序は個人の自由なのか。こういった一般常識を試される機会は普段の生活でも少なからずあって、そのときも自分は周りの顔色をうかがいながら行動の是非を判断するのだが、銭湯では眼鏡を外しているため周りの顔色がわからない。周囲が自分の一挙手一投足に対して適切だと考えるのか、不快を表しているのか、あるいは無関心なのか、それを察知することができない。いっそのこと違反したら即座に笛を吹いてはくれないか。警策で肩を打ち据えてくれないだろうか。

細かいルールについては各自のモラルに任されているのかもしれないが、特に重要なもの、優先的に守らねばならないことは浴場内に貼り紙が出されている。中で飲み食いをしてはいけないとか、湯船に顔を沈めてはいけないとか、勢いよく飛び込んではいけないとか。ほかにも「黙浴」なんていう、おそらく2年前までは存在していなかった単語も生まれている。そのほとんどは言われなくても守れるものばかりだが、だからといって銭湯のルールを網羅したことにはならないのだ。わが家の常識が他人の家では通じないことなど往々にしてある。なにか自分の認識の落ち度によってスルーしているルールがあるのではないかと、貼り紙をしっかり確認しようにも、眼鏡をしていないせいでそれができない。貼り紙の文字を読むのも一苦労だし、ましてや貼り紙がどこに貼られているのかを見つけることさえ容易でない。近視の人間が裸眼のままで視力をブーストしようとすると、眼の形は横に細長くなり、眉間には皺が寄る。表情は訝し気になり、下唇を突き出したまま半開きの口で遠くの壁を睨みつけると、これはもう、「とにかく喧嘩がしたくて仕方ない奴の顔」に酷似してくる。こんな顔を血気盛んな柳生流タオル武術の師範代なんかに見られた日には即敗北だ。おれはまじでなんの心配をしているのださっきから。

貼り紙にばかり注意をとられていたら、すべての衣服を脱ぎ去ったつもりでいた自分がマスクを装着したままだったことに気が付いて、慌てて脱衣所に戻る。脱衣所のごみ箱には裸眼でもわかるほど大きな字で「ここに使用済みマスクを捨てないでください」とテプラが貼られており、一度は浴室に侵入して濡れた体を拭き、脱いだ服を再び着てロビーに戻り、しかるべき場所にマスクを捨ててまた脱衣所へ。中途半端に嫌な湿り方をしてしまった服をもう一度脱いで浴室へ。ほうほうのていで髪を洗い、体を洗い、四国八十八か所を弾丸ツアーで巡るみたいに炭酸泉、水風呂、ジェットバス、シルキーバスと忙しく、別に全種類のお湯に浸かる義務などないのに、ほとんど強迫観念で湯から湯へと飛び回った。ぜんぜんこころがやすまらない。バッグの中に入っていた勾玉のような形状の板切れが、サウナ室(別料金)の扉を開ける鍵の役割を果たしていたことを知るのにも、きっちり一度の火傷を必要とした。

どれくらいの時間が経っただろう。やっと脱衣所に戻り、服を着替え、眼鏡をかけると、ようやく人間の感覚と矜持が戻ってきた。さっきまでの自分は単なる動物であった。温暖な水辺に生息する落ち着きのない哺乳類。さながらヌートリア。巻き貝を食べさせろ。

さて髪でも乾かすかとドライヤーを手に取れば今度は「3分20円」のテプラ。OK、OK、払いましょう。ルールが明示されているのは良いことだ、ルールが読める視力は良いことだ。財布を開くと10円玉は1枚しかない。両替のためにロビーへ出ていくも、自動販売機のコーヒー牛乳は売り切れていた。ところで今、自分はバスタオルを首にかけたままロビーに出てきてしまったが、これはルール違反だろうか? 脱衣所には使用済タオルを回収する専用のかごがあり、そこに返すのがマナーでありルールのはず。10円玉を手に入れるという目的があったにせよ、バスタオルを脱衣所より外へ持ち出すことは実は禁則事項だったりしないだろうか? いや待て、そもそもここで10円玉が手に入ったとして、一度ロビーに出てきた客が入浴するわけでもなくもう一度脱衣所へ戻っていくのはルール上許されていることだろうか? すでに最初のマスクを取り忘れた時点で一度やってしまっているわけで、これが駄目なら前科二犯という話になる。しかし誰も何も言ってこない。審判の笛は鳴らない。警策は飛んでこない。だからといってルール通りである確証もない。公共の場で誰かがルール違反をした場合、それが重度の犯罪でない限り人はあまり面と向かって注意しない傾向がある。注意されないから大丈夫のはず、そういう認識が過去幾度となく人に赤信号を無視させたり、原付二人乗りをさせたりしてきた歴史があるのではないか。

今一度ルールを確認したい。誰かルールを。ふつう銭湯は専属の審判を置かないので(専属でなくても置かない)、ルールに関して審判に尋ねる方法もない。尋ねるとしたら番台にいる店員にだろうが、「脱衣所から出てきてそのまま戻るのはルール違反ですか?」だなんて、答えがどうであれ変な質問をしている自覚だけは一丁前に持っているため恥ずかしさが勝ってしまう。いや、そもそも万が一、バスタオルの持ち出しがルール違反だった場合、質問をした自分の首にかかったバスタオルを見られた時点でアウトのはず。ああ塞がった。八方が塞がってしもうた。

長考の末、公儀隠密の者が人目を避けるごとく脱衣所内へ滑り込んでバスタオルを返却し、さも今おふろから上がったばかりですよという何食わぬ顔でロビーに戻り、ばさばさに濡れた髪のまま番台で鍵を返して銭湯を出た。こんなことになるなら入り口でルールブックを配布してほしい。販売でもいい。次は熟読して臨むから。

疲れが取れたかどうかについては、お願いだから訊かないでいてほしい。

Gimme some magnesium

ゆうべはこむらが来て泊まっていったのだ。

こむらとの付き合いは、なんだかんだで40年近くになる。腐れ縁と言ってしまえばそれまでかもしれない。ベタベタに仲が良いわけでもバチバチに憎しみ合っているわけでもなく、つかず離れずのなあなあな関係性のまま今日まで一緒に歩みを進めてきた。

こむらとの関係は「歩調が合う」とでも言えばいいのだろうか。僕が右足を前に出せば、こむらも右足で踏み出す。左足を出せば、こむらもそうする。一緒に歩いていて楽しいし、そういう意味では頼りになるやつだなと、僕は勝手に思っている。向こうがどう思っているかは知らないけれど。

午前7時、目覚まし代わりのいつもの音楽がスマホから流れ出し、徐々にボリュームを上げていく。The Sun Daysの"Busy People"だ。きっとアーティスト自身も意図していないであろう、休日なんだか労働日なんだかよくわからなくなる名前の組み合わせが気に入って(在宅勤務という状況にも不思議としっくりくる)アラームに設定したのだが、どんなに良いと思う曲でも毎日目覚めのたびに聴き続けると「眠りの快楽を強制中断する音」としての刷り込みが行われて嫌いになってしまう。そこの折り合いをどうつけるかが今後の課題になっていくんだと思う。

アラームを止め、ゆっくり体を起こす横で、こむらが先に起きている気配を感じた。左足が布団からはみ出している。眼鏡を外しているせいで、表情まではよく見えない。

「おはよう」

「ああ」

「やけに早いな」

「うまく眠れなくてさ」

「ずっと起きてたのか?」

「いや、寝たよ。横になって、目を閉じて…目は閉じるんだけど、閉じてるだけっていうか」

「なんだよそれ」

「だめだ、うまく言えないな。忘れてくれ」

こむらはそう言って少し笑った。こむらの肩が揺れてそう見えたのだが、本当は縮こまって震えていたのかもしれない。この時点で気づいてやることは十分できたはずだった。膝を曲げてみるとか…だけど、今となってはもう遅い。すべては仮定の話でしかない。

「始発、もう動いてるよな」

「まあそりゃ、だって7時だもん」

「だよな」

「なあ」

「うん」

「今日、なんか変だぜ、おまえ」

「そうかな」

短いくせに間をもたせられない不器用な沈黙。部屋の中はこんなにも静かなのに、心臓の音だけが聞こえない。かわりに、ふくらはぎが脈拍に似たものを感じ取っていた。嫌な予感がした。嫌だ、嫌だ。返ってほしくない。普段はなんとも思っていないくせに、こむらと別れたくない気持ちが急激に込み上げてきた。

「こむら」

「ごめん。やっぱり返るよ」

「おい」

「返る場所があるからさ」

「どうして。ずっとここにいればいいよ」

「それじゃ駄目なんだ、そろそろ返らないと」

「こむら…」

「楽しかったよ。また遊ぼうな」

「待ってくれ! こむら! 返らないで! ああああああ!!!」

激痛、そして強制的な起床。膝を抱えた姿勢のまま尾てい骨を回転軸にした数秒間のダンス・パフォーマンス。

最悪の、朝が来た。

 

フランドン遁走曲

これは時間とともに忘れ去られて然るべき、とある名もない夜の話。

だったらブログで残しちゃだめだろとか思いながら、矛盾した気持ちでこれを書いている。一人で抱え込むには少々滑稽な体験すぎて。

 

決して眠ることはないと噂されていた首都・大東京からも夜には大半の灯りが消える。そんな日が来るなんて思いもしなかったし、こんな日々が長く続くだなんて考えたくもなかった。このまま21時を過ぎれば飲食店は暖簾を仕舞う。その夜の僕はひどく腹を空かせていて、あと30分で帰宅できるというのにその時間すら惜しく、とにかく今すぐに何か口に運びたい気分だった。

時刻は20時40分を過ぎたところ。ラストオーダー20分前の松屋へとすべり込み、豚めし豚汁セット(生玉子付き)の食券を素早く購めた。

数分後、オーダーどおりの商品が提供される。半分セルフサービスのようになった松屋のシステムに倣い、窓口で受け取ったトレーを持って席に着く。椀の蓋を開ければあたたかな湯気とともに豚汁特有の香りが立ち上る。湖の底から財宝を拾い上げるように探し当てた芋をひとくち、すっかり冷たかった喉と食道に体温が戻ってくる。満を持して豚めしに紅生姜をひとつまみと七味を振り、生玉子を割り入れていざ食べようとした矢先、この世の終わりのような表情で一人の店員が丼を手に駆け寄ってきた。

 

「すいません牛めしですよね、そちら豚めしでした、すいません、こちらです」

 

えっ、と思う間もなく早口でまくし立てられながら慣れた手つきで流れるように回収されてゆく豚めし。そして新たに忽然と現れたのは牛めし牛めし

いや、特に好き嫌いもないし、ぶっちゃけこの空腹を満たせるなら別にどっちがどっちでもいいんだけど、さっき豪快に掻き混ぜて投入した生玉子はどうなったのか。手元にあるのはプレーンな牛めし(玉子なし)だけ。わたしのたまごをかえしてよ。

そもそも自分が注文したものが豚めしだったか牛めしだったかさえ定かじゃないのだ。タッチパネルの表示が誘(いざな)うままにボタンを押して、気がついたらここに座っていた。頼んだのは本当に牛めし豚汁セットだったのかもしれない。でもどっちにしろ生玉子はついていたはずなんだ。わたしのたまごをかえしてよ。ふと、トレーの端に乗った半券の文字が視界の隅に入ってくる。そこには「豚めし豚汁セット」と書いてあった。やっぱ、やっぱり豚めしじゃんか。じゃあこの交換はなんだったのよ。わたしのたまごをかえしてよ。

いや待て、店員さんの言い間違いという可能性もある。最初に出てきたのが牛めしで、あとから豚めしを作り直して持ってきたのだ。それで、謝罪の意思が先行するあまり言葉の順序が転倒してしまったのだろう。人間なのだしそういうミスは誰しもある。依然として生玉子は返してほしいけど、まあいいや。食べよう。ぱく。牛やんけこれ。

このまま黙っていればよかったのかもしれない。豚めしより牛めしのほうが30円高く、しかし生玉子は単品注文すれば70円なので結果差し引き40円の損となる。いや、40円にこだわっているわけではないのだ。こういうのはお金の問題じゃないのだ。けれども僕の心は、僕の精神は僕の魂はすでに、白米にからんで喉元をつるりと通り抜ける生玉子のあの柔らかな感触を希求していた。

 

「すいません」

 

店内に人は疎らだった。窓口の前に座っているテイクアウト待ちの中年男性が、突然立ち上がった縦長の男に驚いてこっちを向いた。

厨房を覗き込むが、さっき牛めしを運んできた店員の姿は見当たらない。まさか退勤してしまったのか? こんなわずか1分の間に? やむなく一番近くにいた店員さんを呼び止める。

 

「あの」

「はいなんでしょう」

「すいませんこれさっき、さっき豚めし回収されたの、牛めし、どっちですかこれ豚か牛か」

「はい?」

 

できるかぎり記憶に忠実な文字起こしをしてみて分かったことは、こんな言い方で伝わるはずがないということだ。

 

「いや、あのーさっきの豚めし? ですかね? 違うってなって交換してもらったんですけど、これー、あのー、えっと、もともと豚めしだったんですよね」

「はあ」

「で、なんか牛めしが来ちゃってるみたいで」

豚めしを頼まれたんですか?」

「あ、そうじゃなくて…そうなんですけど…」

 

どうやらこの店員さんはめし交換があった事実そのものを認識していなかった。決して広くはない店内で、他の店員に気づかれることなく豚めし牛めしをすり替えて自分は跡形もなく姿を消すって、どんなステルス能力者だよと思わざるを得ない。

平行線をたどる議論の末、なぜか「上の者」を呼ばれてしまう。店内のオペレーションはおそらく完全に停止してしまっている。テイクアウト待ちの中年男性が訝しげにこちらを見ている。違う。誤解だ。助けてくれ。「厄介な客」になりたくてこんな行動を起こしたわけじゃない。私は、私は、生の玉子が食べたかっただけなんだ。

やってきた店長に事態を1から(つとめて冷静に)説明しなおし、豚めしが再度提供された。回収されていった牛めしはどうなるのだろう。最初の豚めしはどうなったのだろうか。きっと廃棄にちがいない。空腹だった胃は最初の豚汁ひと口である程度落ち着いてしまっている。意図的じゃなかったとはいえラストオーダー間際の店内を引っかきまわし、テイクアウト商品の提供を遅らせ、ごはん2杯と玉子1個を無駄にしてまで手に入れた「正しさ」に意味なんてなかった。申し訳なさからか生玉子を勢いよく混ぜられないという謎の遠慮が発動し、黄身と白身がほぼ分離した状態のなにかを豚肉の上に回し入れて粛々といただいた。もう味はわからない。ということはやっぱり牛めしでもよかったのかもしれない。

舌の裏に言葉が貼りついてしまったように声が出せなくて、ごちそうさまも言えぬまま店を出た。誰も「ありがとうございました」と言わなかった。当然だろう。今の僕にそんな祝福を受ける資格などない。

あの夜どうやって僕は自分の家までたどり着いたのか。風がひどく冷たかったことだけは覚えている。

脱・ノンアルコー生活

平日の昼間は在宅仕事でずっと家に立て籠もっていることが多く、ときどき休憩や食事のため外へ出るとはいえ大抵1時間以内には戻らなきゃいけない。18時を過ぎれば自由がきくようになるけど、やん坊だかまー防だかの転機でもあるし、あんまり積極的に夜の街へ出て行きたいと思わない。必然的に、書き物をしたり調べ物をしたり本読んだり動画を見たり、仕事が終わったあとも机に向かって過ごすことになる。

そんなわけで1週間のうち少なくとも7分の5は起きて寝るまでずっと椅子に縛りつけられることになるわけで、腰が無事で済むはずもない。低反発クッションを敷いてみたり、誰とも会わないからこその特権でズタボロのジャージを2枚重ね履きして底冷えを凌いだりしても根本的な解決には至らない。

そこで土曜日の今日を「ディスプレイを消せ、町へ出ようの日」に制定することとした。ほんとうは原文に倣って「ディスプレイを捨てよ」と言いたかったけど許せ、また週明けにはすぐ使わなくちゃならない。毎週ディスプレイを捨てては買ってを繰り返していたら資産がいくらあっても足りない。ただでさえ資産はわずかなのに。

町へ出る、といっても賑やかな場所は性に合わないし、安全性も低い。歩こう。とにかく歩くことにした。とくべつ目的のない地点をわざわざ目的地に設定して、ひたすらそこへ向かって歩くのだ。さしあたって自宅から直線にして約3km先のワークマンを目指すことにした。場所のチョイスには深い意味も浅い意味もない、たまたま地図上で目が合ったからだ。この小旅行に制限時間も予算もない。疲れたら途中の公園やコンビニで適宜休めばいいし(調べてないけどあるだろう東京なんだし)、美味しそうな店を見かけたら財布と相談しながら入ってもいい。そして無事にワークマンまで辿り着いたらUターンして帰宅する。

朝11時過ぎに部屋を出た。鍵をかけて、階段を降りて…最寄り駅の踏切を抜けるまでの10分強は見慣れた景色が続く。やがて小川にさしかかる。川沿いの、車はたぶん通れないが道路とも遊歩道ともつかぬ微妙な道をてくてく往くと次第に見知らぬ風景が広がりはじめる。

気温がちょうどよくて歩きやすく、なまった足には心地よい刺激があった。より長期的に身体のことを思えばジムに通ったりしたほうがいいのかもしれないが、そういった人々がいう「軽運動」は今の自分にとっては全く軽くなくて、きっとランニングマシーンの上で吐いてしまう。

途中で立ち寄ったブックオフに、ずっと読みたかった泡坂妻夫の「生者と死者~酩探偵ヨギガンジーの透視術」が二冊置いてあり、しかも片方は到底中古品と思えない状態の良さだったので、反射的に二冊とも買ってしまった。全く同じ本を二冊である。何をやってんだとお思いの方は「泡坂妻夫 生者と死者」で検索してみてほしい。「到底中古品と思えない状態の良さ」が何を意味しているのかも、きっと理解してもらえるはずだ。インターネットはそのためにある。

これは川べりの小さな公園で見た、そのまま自己紹介に借用したい文章。

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As.Spicy.As.Possible

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これは何ヶ月か前に見た力強い看板。

「インド料理」を大きく書くのは当然としても、「間もなくオープン」を同一のフォントサイズで揃えなかったことが表現にダイナミックなうねりを生み出している。たしかに看板を出した時点で店がオープンするのは自明なのだし、わざわざ大きな文字で表す必要はない。そんなことより「いつ」オープンするかのほうがずっと重要だ。結果、「インド料理間もなく」というキラーフレーズが誕生し、それから2週間と経たぬうちに有言実行、このシャッターは上げられることとなった。

わあ、本当に間もなくオープンしたんだな、と前を通るたびに思いながらも、今日まで店を訪問する機会を先延ばしにしていたことは痛恨の極みといえよう。客の気持ちが「インド料理そのうち」程度でしかなかったというのは深く反省しなくてはなるまい。

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インド料理と銘打ちつつ、こんなのもある。そしてこれも「タイ料理お持ち帰り」じゃなく「タイお持ち帰り」なところにダイナミズムが貫かれている。ただの料理だと思うなよと、その味の背後に広がる異国の風を、情緒を、世界をまるごと持って帰るつもりで750円を支払えと、そういうメッセージを受け取った(感受性が過敏になりすぎている)。ヤキビフンに関しては少々見慣れない文字列で一瞬ヤギ料理か何かだと思ってしまった。

カレーセットのテイクアウトは、6種類のカレーから好きなもの1種を選んでナンかライス付きで550円。妥当な値段だと思う。同じものを店内で頼むと、ここに自動的にサラダとドリンクが付いて750円になり、ナンが1枚だけおかわりできるようになる。

お昼時にもかかわらず店内は空いていたので、調理を待つあいだテーブルについて待たせてもらえることになった。3分ほどした頃にラッシーが差し出された。サービスらしい。サービスが過ぎるなと思いつつ礼を言って一口飲むと、その後すぐに商品の用意ができたらしく呼び出される。本当にすぐだった。ラッシーを飲み乾す時間もなかった。まさに「インド料理間もなく」の看板に偽りなしだ。

「どうも」と言ってビニール袋に包まれたカレーを提げて店のドアを開け、爽やかな日差しに照らされた外へ半歩踏み出したところで気がついた。そういえばお金を払っていない。こんな堂々とした万引きがあるものか。

恥ずかしさに身を竦めながらレジ前まで戻り、あ、すいませんお金…と申し訳なさそうに切り出すと、その一部始終を黙って見守っていたインド人の店員は短く一言「ソウネ」と答えたのだった。

カレーの味は申し分なく、量も十分にあった。きっとまた行くだろう。今日の出来事をお互いが忘れ去ってから間もなく。

凧があがる空の方が団地だよ

テレビからも催事からもご近所付き合いからも離れて生活を送っているので、旧年中はまったく年の瀬感がなく、同様に新年感も全くないままに6連休が終わろうとしている。

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おすしが静止する日

ときおり発作的に「○○(店名)が食べたい!」という気持ちになって最寄りの○○へと赴くが、いざ現地に着いてメニューを開くと具体的にこれを食べたいという品が見当たらず、でも一度暖簾をくぐってしまった以上は何か注文せねばならず、釈然としない食事で腹だけ満たして帰路につく…といったケースが増えた。食欲や物欲が消え去ったわけではなくて、食べたいものは確実にあり、しかしその「食べたいもの」には具体的な名前や形や味がともなわない。中空に浮いたユートピアとしての食事、ありもしない幻影の香り、イデアとしての美味、そういったものを追い求めるみたいに生きている、最近はずっと。

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