こじんじょうほう

ここでは普通の話しかしません

そうだ 今日を、生こう。

三連休が終わろうとしており、足が痛い。明らかに歩きすぎから来る疲労の痛みだ。三日のうち最初の一日はあいにくの雨だったが、あとの二日は天気に恵まれ、私はあちこち出かけていった。

出かけるつもりなんか全然なかった。

自分ではない何者か、より上位存在の意思に体を操られているみたいに、私は二日連続出かけていた。あれが見てみたいとか、あそこに行ってみたいとか、あれを買いたいとか、あれが食べたいとか、普通は先行してあるはずの理由も動機も一切なくて、ただ自動的に、それがやむを得ない義務ででもあるかのように服を着替え、靴を履き、玄関のドアを開け、嫌になるくらい強い日差しの中を歩いていた。行くあてがないから向かう方角もまるで定まっていない。とりあえず最寄りの駅に向かい、とりあえず電車に乗る。そういえばしばらく行ってない美味しいカレー屋があのへんにあったなと思い、営業時間をスマホで調べる間に、気が付けばその駅を通り過ぎてしまっている。

仕方がないのでカレーを諦め、じゃあ自分としては珍しく映画でも見るかと最近良い評判を耳にした映画のタイトルを検索すれば、それはどうやら勘違いで公開は去年の話、すでに映画館での上映は終わっておりアマゾン・プライムで見ることができるらしいと知る。だったら家にいたほうが良かったじゃないかと不貞腐れながら額の汗を拭い、こんなに暑いのならいっそかき氷でも食べに行くのはどうだと考え直し、新宿で降りて意気揚々と目当ての甘味処に向かえば臨時休業の札。なんとなく近くに銀行があったので預金を5,000円おろす。金額に深い意味など全くない。手持ちでこれくらいあれば何かしらできるだろうという適当な算段だった。結局、GUで肌着を2枚買ってその日は帰宅した。

二日目も同様に、出かけたいという気持ちよりも家にいたくない気持ちのほうが強かった。消去法で選択された外出に目的などあるはずもなく、昨日は新宿だったから今日は池袋、くらいの気持ちで池袋へ出た。ウィンドウショッピングと呼ぶのもピンとこない、通り沿いの店の並び順を確認してまわるだけの視察みたいな散歩を小一時間続けてから、自動販売機で缶コーヒーを買い、ここを離れるとおそらくゴミ箱はもう見つからないだろうという謎の恐怖心からその場で一気に飲み干した。それから駅に戻り、脳ではなく足が命令するままに埼京線で赤羽へ出て、何をするでもなく駅近辺をぐるりと一周して改札へ戻り、今度は京浜東北線で上野を経由し、上野ではついに改札を出ることさえせず山手線に乗り換えてUターンするみたいに帰宅した。それで足が疲れている。

自宅の最寄り駅まで帰ってきてから、普段使いの100均で便座カバーと除菌ペーパーを買ったことが、おそらく唯一の有意義な行動だったと思う。電車になんか乗らないで最初からこうしていれば、徒歩約20分程度の往復だけで済んだ。ひたすら歩くだけで無駄にした二日間をもっと有効活用できたかもしれないのに。

でも、じゃあ聞くけど、有効活用と言ったって何かするつもりはあったのか?

たぶん何もない。平日はテレワーク状態なので仕事があればパソコンに向かい、仕事が終われば娯楽のためパソコンに向かい、たまに携帯を開き、飼っているカエルを眺めて、ご飯を作って、食べて、眠る。家にいることがあまりにも当然になっていて、出かけようとしても夜遅くまで外にいることに抵抗がある。だから二日とも門限が夜6時の家庭に暮らしてでもいるみたいに、日没前には家に帰ってないと落ち着かなくなってしまっている。

ここからは希望的観測込みの単なる妄想だけど、自宅から出ないことを脳が「死」とみなすようになったのではないだろうか。だから強制的に、ヒトという文化的な生物として生き返らせるために、自らを家から追い出す行動に移させたのだ。たしかに電車に乗っている間は妙な安心感があった。電車に乗っている、ただそれだけで世間一般ってやつに馴染めているふりができた。主収入源である仕事がほぼ在宅で事足りるようになったのはありがたいけれど、それはつまり言い換えれば「別に家から出なくても食っていける」ことの証明になりかねないということでもある。家を出る必要のある行為すべてが不要不急になってしまうのを、無意識のうちに脳が拒絶していたのだろう。この連休の無意味な散策にはそれなりの意味があったのかもしれない。

来週末あたり美術館とか動物園にでもふらふらっと立ち寄ってみたい気分になっている。それから冷たいお茶が一杯、こわい。