こじんじょうほう

ここでは普通の話しかしません

ととのいはとおのいて

身体中いたるところが限界を迎えつつあったので、銭湯へ行くことにしたのだった。

などと書くと、まるで銭湯へ行くのが好きな人みたいな感じがするけれど、実際はそんなこと全然なくて、どちらかといえば苦手なのだ。だったら行かなきゃよさそうなものだが、銭湯や温泉で疲れを吹き飛ばす人が世の中には多いらしいので、自分にも同じ効能が期待できるのではないかと思ったのだった。

銭湯が苦手な理由は大きく分けて2つある。1つは、見知らぬ人の前で裸になることへの抵抗感。まあ単純に恥ずかしいというのもあるが、自分の場合どちらかというと羞恥より心配のほうが勝っていて、だって守備力がゼロになるのだぞ。人間は色とりどりの布を羽織ることで外部の刺激から身を守る性質がある。あなただって道端でつまずいて転んでしまったとき、一張羅が駄目になったかわりに擦り傷を負わずに済んだ経験があるだろう。フェンスの針金が切れて出っ張っているのに気づかずコートの裾をひっかけて破いてしまった経験があるでしょう? カレーうどんの汁が跳ねても火傷せずにいられるのは白Tシャツが身を挺して守ってくれたからでしょう? だけど裸でいると背後から、いや背後じゃなくてもいい、正面から拳骨の一つでもみぞおちへ叩き込まれたら一巻の終わりではないか。それは服を着ていても防げないか。そうか。

加えて自分の場合は眼鏡を常用している、極度の近眼である。ところが銭湯では眼鏡をしたまま湯船に入っていくわけにいかぬ。まったくの丸腰で、そのうえ相手の顔もよく見えない状態で水中へ赴くことのなんと恐ろしいことか。相手の顔が見えないのは表情がわからないということで、つまり喜怒哀楽がわからない。攻撃の意志や悪意の有無さえ感じ取れない。かろうじて体格くらいは裸眼でも大体わかるので、それだけを手がかりに浴室内を移動するほかないのだけれど、男湯に出入りするヒトビトの姿を見渡せば、まーどいつもこいつも体格が良い。戦って勝てそうなひょろひょろっとした人はあんまりいなくて、そこに自分が裸でいる心細さも手伝って、皆一様にツキノワグマウェアウルフのように屈強にみえる。そこはさながら水辺のサバンナ。唯一持つことを許された護身具は小さなタオル一枚、いざとなったらこれで戦うっきゃないのである。水気を含んだタオルはそりゃ振り回せばそこそこの武器になるだろうし、うまく扱えれば相手の手首に巻きつけるなどして鎖鎌のような戦法も取れるかもしれないが、生憎そんな特殊な格闘技には精通していない。それに相手も同じものを持っているはずで、ましてや柳生流タオル武術の使い手なんかが行く手を遮ってきた日には即敗北だ。おれはなんの心配をしているのださっきから。

そこまで心配するのなら銭湯なんて行くなよという声もよくわかる。おれだってそう思う。でも疲れているのよ。早急に整えなくてはならないのよ。

入口の券売機でセット券を購入する。チケットを受付に渡すと引き換えに、なにやら粗いメッシュ構造のバッグとロッカーの鍵を手渡された。ロッカーの鍵はぐるぐるしたバンドに固定されており、そのまま腕にはめることができる。そしてバッグの中にはタオルとバスタオル、それから勾玉のような形状をした謎の板切れが入れられていた。以上が初期装備である。冒険が始まる。

そしてここからもう1つの苦手要素が効いてくる。「銭湯には守るべき暗黙のルールとマナーが存在する」という点である。

ルールが存在すること自体に文句を言うつもりは全くない。まがりなりにも公共の場であるわけだし、ルールはあって然るべきと思う。そして可能なかぎりそれを遵守したい気持ちもある。先に書いたような「銭湯内での戦闘行為は禁止する」といったこともきっとルールに盛り込まれており、おかげで身の危険をいくら案じようとも実際に降りかかることなく済んでいるのだろう。実にありがたい。

ただ問題は、それらルールのほとんどが不文律であり、どこで教わるものでもないという点にある。常連客にとっては当然でも、ごくたまにしか銭湯に行かない自分のような者にとっては、一挙一動がルール違反かそうでないのか判別がつかない。たとえば、かけ湯の回数。たとえばシャワーを使うとき背後を通るかもしれない人への声かけの必要可否。浴場に入ったらまず湯船に浸かるべきなのか、身体を先に洗うべきなのか、その順序は個人の自由なのか。こういった一般常識を試される機会は普段の生活でも少なからずあって、そのときも自分は周りの顔色をうかがいながら行動の是非を判断するのだが、銭湯では眼鏡を外しているため周りの顔色がわからない。周囲が自分の一挙手一投足に対して適切だと考えるのか、不快を表しているのか、あるいは無関心なのか、それを察知することができない。いっそのこと違反したら即座に笛を吹いてはくれないか。警策で肩を打ち据えてくれないだろうか。

細かいルールについては各自のモラルに任されているのかもしれないが、特に重要なもの、優先的に守らねばならないことは浴場内に貼り紙が出されている。中で飲み食いをしてはいけないとか、湯船に顔を沈めてはいけないとか、勢いよく飛び込んではいけないとか。ほかにも「黙浴」なんていう、おそらく2年前までは存在していなかった単語も生まれている。そのほとんどは言われなくても守れるものばかりだが、だからといって銭湯のルールを網羅したことにはならないのだ。わが家の常識が他人の家では通じないことなど往々にしてある。なにか自分の認識の落ち度によってスルーしているルールがあるのではないかと、貼り紙をしっかり確認しようにも、眼鏡をしていないせいでそれができない。貼り紙の文字を読むのも一苦労だし、ましてや貼り紙がどこに貼られているのかを見つけることさえ容易でない。近視の人間が裸眼のままで視力をブーストしようとすると、眼の形は横に細長くなり、眉間には皺が寄る。表情は訝し気になり、下唇を突き出したまま半開きの口で遠くの壁を睨みつけると、これはもう、「とにかく喧嘩がしたくて仕方ない奴の顔」に酷似してくる。こんな顔を血気盛んな柳生流タオル武術の師範代なんかに見られた日には即敗北だ。おれはまじでなんの心配をしているのださっきから。

貼り紙にばかり注意をとられていたら、すべての衣服を脱ぎ去ったつもりでいた自分がマスクを装着したままだったことに気が付いて、慌てて脱衣所に戻る。脱衣所のごみ箱には裸眼でもわかるほど大きな字で「ここに使用済みマスクを捨てないでください」とテプラが貼られており、一度は浴室に侵入して濡れた体を拭き、脱いだ服を再び着てロビーに戻り、しかるべき場所にマスクを捨ててまた脱衣所へ。中途半端に嫌な湿り方をしてしまった服をもう一度脱いで浴室へ。ほうほうのていで髪を洗い、体を洗い、四国八十八か所を弾丸ツアーで巡るみたいに炭酸泉、水風呂、ジェットバス、シルキーバスと忙しく、別に全種類のお湯に浸かる義務などないのに、ほとんど強迫観念で湯から湯へと飛び回った。ぜんぜんこころがやすまらない。バッグの中に入っていた勾玉のような形状の板切れが、サウナ室(別料金)の扉を開ける鍵の役割を果たしていたことを知るのにも、きっちり一度の火傷を必要とした。

どれくらいの時間が経っただろう。やっと脱衣所に戻り、服を着替え、眼鏡をかけると、ようやく人間の感覚と矜持が戻ってきた。さっきまでの自分は単なる動物であった。温暖な水辺に生息する落ち着きのない哺乳類。さながらヌートリア。巻き貝を食べさせろ。

さて髪でも乾かすかとドライヤーを手に取れば今度は「3分20円」のテプラ。OK、OK、払いましょう。ルールが明示されているのは良いことだ、ルールが読める視力は良いことだ。財布を開くと10円玉は1枚しかない。両替のためにロビーへ出ていくも、自動販売機のコーヒー牛乳は売り切れていた。ところで今、自分はバスタオルを首にかけたままロビーに出てきてしまったが、これはルール違反だろうか? 脱衣所には使用済タオルを回収する専用のかごがあり、そこに返すのがマナーでありルールのはず。10円玉を手に入れるという目的があったにせよ、バスタオルを脱衣所より外へ持ち出すことは実は禁則事項だったりしないだろうか? いや待て、そもそもここで10円玉が手に入ったとして、一度ロビーに出てきた客が入浴するわけでもなくもう一度脱衣所へ戻っていくのはルール上許されていることだろうか? すでに最初のマスクを取り忘れた時点で一度やってしまっているわけで、これが駄目なら前科二犯という話になる。しかし誰も何も言ってこない。審判の笛は鳴らない。警策は飛んでこない。だからといってルール通りである確証もない。公共の場で誰かがルール違反をした場合、それが重度の犯罪でない限り人はあまり面と向かって注意しない傾向がある。注意されないから大丈夫のはず、そういう認識が過去幾度となく人に赤信号を無視させたり、原付二人乗りをさせたりしてきた歴史があるのではないか。

今一度ルールを確認したい。誰かルールを。ふつう銭湯は専属の審判を置かないので(専属でなくても置かない)、ルールに関して審判に尋ねる方法もない。尋ねるとしたら番台にいる店員にだろうが、「脱衣所から出てきてそのまま戻るのはルール違反ですか?」だなんて、答えがどうであれ変な質問をしている自覚だけは一丁前に持っているため恥ずかしさが勝ってしまう。いや、そもそも万が一、バスタオルの持ち出しがルール違反だった場合、質問をした自分の首にかかったバスタオルを見られた時点でアウトのはず。ああ塞がった。八方が塞がってしもうた。

長考の末、公儀隠密の者が人目を避けるごとく脱衣所内へ滑り込んでバスタオルを返却し、さも今おふろから上がったばかりですよという何食わぬ顔でロビーに戻り、ばさばさに濡れた髪のまま番台で鍵を返して銭湯を出た。こんなことになるなら入り口でルールブックを配布してほしい。販売でもいい。次は熟読して臨むから。

疲れが取れたかどうかについては、お願いだから訊かないでいてほしい。