こじんじょうほう

ここでは普通の話しかしません

何かが道をやってきて

詰め替えのハンドソープが切れかけていたので、夕飯の買い物をするついでに探しに行こうとした。それだけのはずだった。

 

ェハェハェハェハェハェハェハェハェハェハェハェハェハェハェハェハェハ

玄関を開けた途端、耳慣れない音が飛び込んでくる。どちらかといえば閑静な住宅街と呼べなくもない地域に住んでいるので、とりたてて警戒はしなかったが、それにしてもあまり聞いたことのない種類の音が等間隔に、しかし機械的ではない若干のゆらぎを含みつつ反復している。音は下の道から聞こえてくるようだった。

自分の部屋は3階建てアパートの3階にあるので、どんなに急いで階段を駆け下りても通りに出るまで15秒はかかる。短いテレビコマーシャルなら流しきるに十分な時間だが、その間も途切れることなく音は続いており、なんなら少し接近してきていた。

デヘデヘデヘデヘデヘデヘデヘデヘデヘデヘデヘデヘデヘデヘデヘデヘデヘ

音が道路のむこうからやってくるx軸の移動と、自分が3階から2階を経由して1階へと降りていくy軸の移動。2つの座標の3次元的接近によってくっきりとした音像が結ばれるにつれ、「動物の発する鳴き声かもしれない」と思いはじめた。直観ではあったが、その音はなまあたたかく湿った質感を持っていたからだ。

もうすぐ階段を降りきる。集合ポストの脇をすり抜けて、一歩。音を発する移動体は、いままさに目の前を過ぎ去るところだった。

ベフベフベフベフベフベフベフベフベフベフベフベフベフベフベフベフベフ

パグだ。

音の正体は黒いパグ犬だった。けさ地球に降り立ったばかりと見紛うくらい周囲のすべてに興味津々で、右を向いたかと思えば左を向き、せわしなく四肢を動かしている。手綱を引いているのは70代前半くらいの女性だったが、特に引きずられる様子もなく矍鑠と歩いており、呼吸の荒さのわりには飼い主の完全なコントロール下にあった。

目的地であるスーパーマーケットの方角的に已むを得ず、飼い主の後ろを自分がついて歩くかたちとなった。歩幅がだいたい同じなのか距離は縮まっては離れ、パグ犬の呼吸もベフとデヘの間を行ったり来たりする。

飼い主が立ち止まった。パグ犬が用便を行ったのではない。水を飲むためだった。年季の入った小型のトートバッグからペットボトルが取り出される。パグは座ったまま相も変わらず荒々と息を弾ませながら見上げている。その声は主人にこまめな水分補給を促すようにも響いた。

ゼヒゼヒゼヒゼヒゼヒゼヒゼヒゼヒゼヒゼヒゼヒゼヒゼヒゼヒゼヒゼヒゼヒ

飼い主が止まっているので、歩き続ける自分とパグ犬の距離は近くなっていく。それにしても不思議なのは、なぜこんなにも呼吸が乱れているのかということだ。たしかに去ったはずの夏がぶり返してきた今日は昨日よりも暑いけれど、すでに陽が落ちて薄暗くなり始めた今、そこまで気温も高くはない。家の前を通るまでにどれだけの距離を散歩してきたかは知る由もないが、パグ犬の呼吸はついさっきまで大草原を駆けずり回っていた犬のそれだった。

ザハザハザハザハザハザハザハザハザハザハザハザハザハザハザハザハザハ

どうしたんだ、いつまでそんな話をしているんだ。オリンピックはとうに終わったぞ。

追い抜いて、顔をじっくり見てみようと思った。もちろん飼い主ではなくパグ犬のである。あんな深く荒い呼吸をかれこれ5分以上も続けている犬に興味が湧いたのだった。
3メートル、2メートル、と近づいていく。パグ犬の横顔からは薄くて広いクリスピータイプピザのような舌がだらんと垂れているのが見える。犬は舌から熱を逃がすと聞く。どれほどの熱があの体内に籠っているというのか。
パグと自分の座標軸が並んだ。右下を向けば顔がある。止まる気配のないザハ。飼い主に好奇心を悟られぬよう、さりげなく視線を動かした。そして目が合った瞬間にパグはピタリと口を閉じ、真顔でこちらを見た。

ベフッ

呼吸を止めて一秒あなた真剣な目をしたパグ。不意打ちのにらめっこに負けて思わず声が漏れてしまった。マスクで表情は読み取れないだろうからセーフにしてほしい。犬が真顔になる瞬間がこんなにも面白いとは知らなかった。

ハンドソープを買い忘れたので夕飯を食べたらもう一度出かけなくてはならない。