こじんじょうほう

ここでは普通の話しかしません

受難ボーイ

シーズンにやや遅刻気味でやって来て、やる気を見せることで必死に遅れを取り戻そうと奮闘した健気な台風24号が、まさしく風のように過ぎ去った翌日の朝…に気付けていれば、もう少しタイムリーな面白さもあったと思う。

「面白さ」を主眼にしている段階で人生をおろそかにしていると言われがちだ。他人の不幸が蜜の味だというのなら、こっちから自家製蜂蜜を喰らわせに行ってやるぞくらいのガッツがある。なぜそんなものが自分に備わっているのか、歪んだサービス精神か、正気を維持するための安全弁か、神様が取り除きそびれた初期不良か。

そんなことはいい、台風の話だ。台風の日はほぼ外に出かけなかった。入っていた予定はすべて向こうからキャンセルとなり、出歩こうにも夜20時を過ぎれば交通機関も動きを止めている。実家に向かう最終バスが20:10に出るような田舎で育ったものだから、このくらいは不便でもなかった。とにかく雨と風の音に耳を塞ぎながら、とはいえ轟音の中で眠るには神経が昂っていたりもして、なんのかんので午前3時ごろまで起きていた記憶はあるのだった。

翌朝、寝ぐせのついた頭髪を洗い流そうと蛇口をひねったが、水しか出なかった。

徹夜こそしていないものの、わずか数時間の睡眠から覚めたばかりで正常な回転数に届かない頭では危機感も募らない。豪雨のあとは屋外湯沸器の内部に水が入り込み、一時的に給湯ができなくなることがあるのは知識として知っていたから、あまり焦っていなかったのもある。夜になれば復旧するだろう、そう確信して仕事に出かけた。

結論から言うと、その日の疲れを熱い風呂で癒やす夢が叶うことはなかった。

さらに翌朝。泉を探す砂漠の民のように敬虔な、祈る気持ちで蛇口をひねる。水は出る。わが内なる砂漠の民は大喜び。しかしお湯出ない。わが内なる東京都民がっかり。

ふと考えが浮かぶ。給湯器はベランダ側に据え付けられている。専門家でもない人間が見たってどうにもならないだろうが、ここはひとつ、給湯器本体の様子を見てみるというのも一興ではないか。

なにが一興なんだかわからないが、とにかくそう思い、閉め切ってあるベランダの遮光カーテンに手をかけて引くと、そこにはお湯出ない問題を忘却の彼方へと追いやる真新しい光景が広がっていた。例えるならばそう、停滞した平々凡々な日常を切り裂かんとする太刀の一振りにも似た…

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ワーオ。

長い戦いになりそうだ。

 

* * * * *

 

今のところ占い師から「水難の相が出ている」と言われた経験はない。ないが、それは僕が占いに興味がなく、占ってもらった経験がないからにすぎない。今の僕を占って水難の相を見出せないようならば、おそらくそいつは占い師として失格だ。

海のない奈良の盆地で生まれ育ち、海に面していない杉並区へ越して来た。実家のすぐそばには防火用水の溜池だってある。学生時代に友人と「ききミネラルウォーター」をやってエヴィアンを一発で当ててみせた栄光こそあるが、水神の怒りを買うような罪は犯した覚えがない。なのにどうして。どうしてさ。ひどいじゃないか。

そうはいっても二日目の夜に湯が出なかったとき、「エピソード」として最も面白くないオチは回避できたと胸を撫で下ろしてしまったので、きっと僕は死後「自分を大切にしなかった者だけが落ちる地獄」へ行く。

何はともあれ、アパートの管理会社に電話をする必要がある。前回雨漏りが起きた時も管理会社に電話した。ちなみにその時の雨漏りの原因は「屋根の一部に隙間埋めのコーキングがなされていない」という凡ミスによるもので、修繕費その他諸々は大家さんが全額出してくれた。管理会社からは新品の布団が一式贈られてきて、「ついでに他の欠陥部位もまとめてケアする」という名目のもと、今まで真っ白だったアパートのドアと外階段の全面が泥のように深いアンバーブラウンへと塗り替えられた。いまでもその意図はわからない。外壁は白いままなのでコントラストが随分えぐい。

発信ボタンを押す前に逡巡があった。ガラスの件と給湯の件、どちらも事態は急を要する。しかし、給湯器も窓ガラスもベランダにあり、ベランダへ出るためにはこの部屋を通り抜ける以外にルートがない。この部屋を通り抜ける? どんな冗談だよ? ここには足の踏み場以外すべてがあり、かつ、すべてがあるべきところにない負の楽園。この部屋の散らかりようを他人に見られるのと、いつ決壊するかも知れない窓ガラスのまま暮らすのと、どちらがマシか?
即答できて当然の二択を迷う程度には部屋が汚い。 ― My room is risky as well as dirty.
二階層くらい低い次元でハムレットの気持ちを理解した。まだマクベスの魔女を気取るには徳が足りないようだ。

シミュレーションをする。

  • 事が事だけに、いくらなんでも放置するのは無理。自分の生活水準にかかわる。
  • かといって連絡してから今日の今日とか今日の明日で訪問されても困る。
  • とりあえず人を通せるレベルまで片付けるために時間の猶予が必要なので、数日後に修理が来るよう誘導する。

管理会社といいつつ相手の番号は携帯だ。大昔に不動産のデータ入力アルバイトをしていたことがあり、そのとき同じ会社にいた人が直接担当している物件なのだ。本社に電話をしたことはない。住まいに関することは毎回この人の携帯に電話をするし、住まいに関する電話はいつも(家賃を滞納してしまった時も)この人の携帯から架かってくる。現時刻は正午を少し回ったあたり。携帯なので常識的な時間にかけさえすれば相手は必ず出る。ワンコール、ツーコール、スリーコール目で呼び出し音が途切れた。眠そうな声がした。

「はい、****(会社名)です」
「あ、***(物件名)に住んでいる辻本ですが、先日の台風でガラスにヒビが入ってしまいまして、あとお湯も出ないんですけど…」
「あー熱割れですね」
「え?」
「辻本さんのところ網入りガラスでしょう、だから屋外との寒暖差が激しいとヒビ入る性質があるんですよ。すぐには割れないので心配ありません」

待ってくれ。思っていた反応と違う。こちらの綿密なシミュレーションを逸脱しないでくれ。

「え、換えなくてもいいってことですか?」
「もちろん割れてしまったとかであればすぐ交換しますけど、熱割れはガラスの特性上起こりうることなんでね、交換しても同じことが起きる可能性は高いです。網入りで強化されてますから、ヒビだけであれば基本的には皆さんそのまま暮らしていただいてます。私の家もそうなってますし(笑)」
「(笑われてしまった…)じゃあ自分で補強するのは大丈夫ですか? テープ貼ったりとか…」
「それは問題ないです。何度も言いますがヒビは性質なので辻本さんの過失じゃないですし、原状復帰できないので辻本さんが退去された後は次の方に渡す前に交換しますから」
「はあ、わかりました」会話が終わってしまう。「あっ、あとお湯、お湯が出なくて」
「辻本さん今ご在宅ですか?」
まずい。今すぐに来られるのは一番まずい。「ええと、今はいますけど、この後すぐ出なきゃいけなくて…」
「そうしたら、ちょっとベランダに出ていただいて給湯器の型番見ていただけます?」

言われるまま裸足でベランダに出る。足の裏に触れたモルタルは暖かくも冷たくもなく、かすかに粉っぽい感触がした。いかにも意味ありげだが、とりたてて何かの伏線となる描写ではない。給湯器の表面は経年劣化で塗装がすっかり剥げ落ち、投棄された古い交通標語の看板のようにざらついたクリーム色を晒していた。
「型番…なにも書いてないです。文字らしきものが何もない」
「そんなはずはないんですがね。どこのメーカーかも書いてないですか? リンナイとかパロマとか」
「あ、ほとんど消えかかってますけど何かうっすらと…ナ…ナショ…ナル?」
「ナショナル?」
「だと思います、多分。Natioまでは確実に読めるので」
「ナショナルの給湯器なんてあったかな」
電話の向こうで相手が訝しむ様子がわかる。性格が災いするとはこのことで、こちらに非がないにもかかわらず相手の不安を打ち消さなくてはという義務感・使命感のようなものが発生し、訳もなく早口になってしまう。
「あ、ありました、ありました、型番っぽいの。***-**、これですか?」
「**、なるほど」相手は型番の中に含まれるアルファベット2文字の組み合わせに思うところがあるらしく、「それじゃあ辻本さん、今から言うメールアドレスに給湯器全体の写真と、なるべく型番が見えるような写真を撮って送っていただけますか? それで、修理か交換の手配をしますので」
「(来た!)えっとそれは、立ち合う必要がありますよね?」
「そうですねベランダ側なので、いらっしゃる時でないと入れないので…」

管理会社といえども3階のベランダには住居内を通らずに行き来ができない。ガス給湯器の工事会社は縄梯子を持っていたり、ベランダに直接ヘリで乗りつけたりはしない。推理小説の鉄則「秘密の通路」の可能性はこれで消えた。ならばこちらも覚悟を決めるしかあるまい。部屋を片付ける覚悟を。

「なので辻本さんのスケジュール的にどうですか? 明日とか…」
「(持てる限りの演技力をふりしぼって)や、ちょっと明日はあーのあれですね帰りが遅くなるんで多分深夜になっちゃう、明後日も時間読めないみたいなところがあってえーっと週末、あの土日? の三連休? のあたりで調整できれば助かりま、す、け、れ、ど、も、」
「えっ、そんな先でいいんですか? 不便でしょう?」
「いいですいいです、待てますんで私はあの、はい。待てますから、はい。待てます」
「…わかりました、では工事業者とも相談してご連絡します」
「よろしくお願いします」

通話を終えた僕はベランダから戻り、これから片づかねばならない運命にある部屋を見まわした。

あの神でさえ、天地創造に休憩込みで7日を費やした。それと真逆のことを3日でやる。いまから。

ああ、ため息がこんなにも似合う風景があるなんて。